ささみん

発酵食とか、諸々

捉え方の話をしていたら太刀魚が出てきた

あなたは捉え方について考えたことありますか?

壁を嫌なものだと感じてませんか?

みなさんは難しい課題、壁にぶつかった時、 「もうやだついてない」「うわ~最悪、なんでこんな事やらなきゃいけないんだよ」「なんでこんな事になってしまったんだろう」 なんて、嫌なものだと思ってしまうことない? 少なくとも私はあるぞ。  

壁を嫌だと思うから辛いのである。

壁はあくまでも壁としてそこにいるだけ。 つまりは、壁には何の感情も壁には何の機能もなく、 ただ壁としてそこにあるだけ。ただの壁なのだ。 白くても、黒くても、高くても、低くても、 ぜーーーんぶあなたが壁をそうやって見ているだけなのだ。

辛いと感じてしまうのは自分の考えの癖である

つまり、壁じたいは何の変哲もないただの壁なのに、 壁に対して、「辛い」と感じてしまう自分がいるから壁があるという事実に対して、「辛い」と思ってしまってことなのだ。 他の例簡単な例を挙げると、 「太刀魚」という言葉を聞いて何を思い出すのかということ。 私の場合は、 ”高校時代に「太刀魚」についてショートコラムを書いたら何故か学年通信に載ったなー”とか。 ”あの白身、骨ばかりかと思いきや割と肉厚でパサパサしないけど程よい旨味が詰まっていて最高に美味しいんだよな”とか そんなの。 (↑これ絶対美味しい。間違いない。THE★太刀魚マイスターが語るんだもん) ((面白くなってきたぞ「太刀魚」)) (ちなみに「太刀魚」は”ふとがたなうお”ではなく”たちうお”だよ。これ覚えただけでも人生豊かになる) おっと脱線脱線 要は私が壁の捉え方を自分で無意識に選択してしまっているのだ。

別の見方もある

つまり、壁に対して ”やったーロッククライミング出来る壁がある!” と捉えるのもよし。 ”えぇぇ、前に進めないじゃん。。どうしようなんで私っていつも目の前に壁が現れるんだろう” と捉えるのも、もちろんよし。 捉え方は千差万別でいいのだ。 )

大事なのは場面が違っていたら捉え方も変わっていたということ

あなたが今壁に対して抱く印象は、もし場面が違い、出会う人が変わっていたら、異なるものだったかも知れないものだってことなのだ。

無理して捉え方を変える必要はない

”今までの人生は壁を辛いと感じる生き方をしてきた。これからもそうやって感じ続ける”という道も ”これまで壁を辛いと感じる生き方をしてきたけど、壁を面白いとも考えられるのか。じゃあ変えてみよ”という道もどちらを選んでも良い。 だって今まで私は自分にとって一番いいと思う方法を選んでここまで生きてきているのだから。 壁という未知のものが現れた時にあなたが”壁は●●である”という決断を下しただけなのだ。 その決断が自分を苦しめていようがいまいがそのときは最善の選択をとっているはずなのだ。 (私はこの言葉を最近いただいた) だから私はあなたに言おう。 あなたが望むように 生きなさい とな。

りっちゃんの”変わらなきゃ”という思い込みで人生色々迷走した話はまたブログで発信するよ

 

捉え方を変えるのは楽じゃない人もいる

もちろん捉え方を変えることは楽かもしれない人によっては。でも尋常じゃないくらい変われない人もいるのだ。 そんな人はまず自分を認めることからなのかも知れないな。 (私はいま自分を認めている最中なのであまり気の利いたことはかけない。また認められたら書くね)

変われない人間が考えたなぜ変わらないかはまた近々発信するよ

 

捉え方を変えるHOWを学ぶのは悪くない

物事はすべて捉え方だから、捉え方の変え方を知ることは 悪い話ではないと思う。 だから捉え方の変え方を自分で学ぶのは非常によいかも。

でもまずは自分で物事の捉え方を受け止める

過去とりあえず変わろうと思って自分を失った話はまた追って。

受け止めるために大事なのは、 自分がどう捉えてしまうかをまずは知り、言語化すること。 それをじゃあどうするのかは自分で認める。 その連鎖で人は癒やされていくんだと思う。   自分を知ることはおっぱ●よりもよっぽど癒やされると思うんだ。 だからぜひ、自分の捉え方を点検してみてくれ。